はじめに
5月7日、ベトナム北部の山岳地帯ディエンビエン省に位置するディエンビエンフー市で、ディエンビエンフー作戦の勝利70周年記念式典が開催されました。この戦いは、インドシナ戦争におけるベトナムの重要な勝利で、フランス軍を撃退し、その後のベトナム独立につながる大きな転機となりました。今回は、70年前のこの出来事について、当時の貴重な白黒写真資料を交えてご紹介します。
ディエンビエンフーの戦い
1954年3月から5月にかけて、ベトナム北部のディエンビエンフー盆地で行われたディエンビエンフーの戦いは、インドシナ戦争中で最も大規模な戦闘でした。この戦闘は、第一次インドシナ戦争における最大の戦闘であり、ベトナム人民軍とフランス軍合わせて約1万人の戦死者を出しました。
ディエンビエンフーの戦いの展開
フランス軍は、戦略的に重要なディエンビエンフー盆地に大量の兵員と装備を空輸で投入し、強固な拠点を構築しました。この地域を確保することに加え、ベトミン軍の広範な兵站線を断ち切り、孤立無援の状態に追い込むことを目指しました。フランス軍はベトミン軍を盆地に誘引し、包囲・殲滅を計画したものの、ベトミン軍はボー・グエン・ザップ将軍の指揮のもと、約20万人の兵力を動員し、フランス軍の拠点を完全に包囲しました。密林を利用した補給路の確保と長期的な包囲攻撃が功を奏し、約2ヵ月間におよぶ激しい攻防の末、1954年5月7日にフランス軍は降伏しました。戦いはベトミン軍の勝利で終わりました。
その後の影響
ディエンビエンフーの戦いの後、フランスの国内世論は、これまでと一転して戦争の継続に反対する方向となり、政権交代と停戦の流れを加速させました。1954年7月21日、ジュネーブ協定によりフランスはインドシナから撤退し、その後ベトナムは南北に分割されました。ディエンビエンフーの戦いは、ベトナム独立運動において重要な勝利であり、全世界の民族解放運動に影響を与え、多くの植民地地域での独立を求める動きを促進しました。この勝利によりフランスは撤退を強いられ、世界史における重要な転換点となりました。
指揮を執ったボー・グエン・ザップ将軍は、その戦術的洞察力とリーダーシップが高く評価され、後のベトナム戦争においても重要な役割を果たしました。「赤いナポレオン」とも称される彼は、戦術的な天才として、また教育者から革命家へと転じた人物として、ベトナムでは広く知られています。ディエンビエンフーという名前は、ベトナムでは勝利の象徴として、ハノイの主要な大通りにもその名が付けられています。
ディエンビエンフー作戦に関する貴重な白黒資料
今回の記念式典で展示された白黒写真は、ディエンビエンフーの戦いのさまざまな様子を捉えています。これらの資料は、戦闘中の具体的な状況、兵士たちの日常生活および戦場の環境を詳細に描写しており、戦時中の戦略的な動きや地域の地理的特徴が記録されています。当時の人々の体験と戦争の現状を知ることが出来る、非常に貴重な資料です。
ディエンビエンフー戦勝70周年記念式典
2024年5月7日、ディエンビエンフー戦勝70周年記念式典が、ベトナム北部ディエンビエン省ディエンビエンフー市で開催されました。この式典では、21発の祝砲が鳴らされ、国旗掲揚式が午前7時45分に行われました。早朝2時から、多くの市民がディエンビエン省運動場や市内の主要道路に集まり始めました。
ファム・ミン・チン首相、共産党書記局のチュオン・ティ・マイ常務、ボー・ティ・アイン・スアン国家主席代行をはじめとする政府高官や、各省庁、部門、地方機関の関係者が出席しました。式典はベトナム国営テレビ局(VTV)のVTV1チャンネルで生中継され、チン首相がスピーチを行い、「ディエンビエンフーの戦いは植民地化された世界の国々に向けた勝利であった」と述べました。
チン首相はさらに、過去40年間に実施されたドイモイ政策と国際社会への統合によって、ベトナムが大きな成果を収めたことを強調しました。周辺地域や世界情勢が複雑化する中、全国民が困難を乗り越え、新たな奇跡を創出するよう呼びかけました。
周辺各国からは、ラオス、カンボジア、中国からの代表者も参加しました。また、フランスからもセバスティアン・ルコルニュ軍事相が出席し、フランスの国防相としては初めて、ディエンビエンフー戦勝記念日の式典への参加となりました。
さいごに
最後に、この記念式典はベトナムの歴史における重要な節目を祝うとともに、国際社会との連携強化を象徴する式典となりました。多くの国内外からの参加者がこの地で一堂に会し、歴史的な式典を共に祝い、平和と発展への共通の願いを新たにしました。